リリックライフ

歌詞考察ブログ リリックライフ

意味を知るとグッと良くなる

【歌詞解釈】米津玄師/でしょましょ 令和という時代に対する調和を望んだ曲、なぜ”でしょましょ”なのか

 

 

f:id:tubuyakuaoitori:20190917074514j:plain

 

馬と鹿とてもいい曲ですね、米津玄師さんの飲み込まれるような表現力にはいつも、聴き入ってしまいます。

 

しかし、今回はカップリング曲の「でしょましょ」での話。

毎度、米津さんのカップリング曲は普段以上に枠にはまらない自由な曲作りがすごく魅力的で毎度楽しみにしています。

 

でしょましょ 歌詞「米津玄師」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】

 

でしょましょ

でしょましょ

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

 

令和の時代を歌った曲

この曲を考察するにあたっては、米津玄師さんのインタビューを真っ先に読みました

こちらを読んでから、この記事を見るとよりわかりやすいかもしれません。

 

ちなみにNews Zeroで語られたインタビューの内容になります

 

realsound.jp

読みましたか?

 

曲に現れるミステリアスで達観的な雰囲気からは感じれない、大らかさと考えの深さに、本当に賢い人なんだなと思わされます。

 

その独特な思慮深さが米津玄師をアーティストたらしめるものだなと、インタビューを読むたび感じます。

 

インタビューでは「でしょましょ」に対してこう述べていました。

 

通り魔や京都アニメーションの放火事件など、せい惨な事件が多発している社会に対して「とんでもない時代に突入したんじゃないか」という思いから本楽曲を作ったという。 

 

凄惨な事件というのも、個人的な見解では「理不尽で理解し得ない事件」というのが目立つ時代だなと思います。

 

京アニのことも通り魔のことも、誰かに明確な殺意をもつわけじゃなく、誰かが誰かの手によって無差別に死んでしまうというところで共通している。

 

もちろん明確な目的や意味があっても殺意は看過しがたいものだが、もっとフワフワした穏やかでない気持ちが助長されて、どこかで命を奪ってしまう

 

まさに「とんでもない時代」

 

それでも、ネットから流れる主張は様々で、それらは事件を嘆くにとどまらず、どこかで見ていられないような意見にも発展している。

 

そういう「とんでもない時代」の背景にはネット社会による”監視性”の強化

それにより日本中でひしめき合っている重圧感も関係してるんじゃないかとそう思います。

 

この曲はそういう混沌の時代に対して、ひとつの”提案”をしているんじゃないかと、そう思いました。

 

インタビューでいっていた「中間」というの米津玄師さんのスタンスがすごくキーワードなんだなと思いました。

「ひたすら中間というか、真ん中には何があるのかを探し当てる、自分にとって音楽を作る上でも日々生きていく上でも一番大事なことなのかな」

 

歌詞解釈

では、前置きが長くなりましたが、歌詞を順を追って、解釈していきます。

この歌はオシャレなギターが響き、「でしょ」を繰り返すフレーズから始まります。

如何でしょう あたしのダンスダンスダンス
ねぇどうでしょう?それなりでしょう?
一人きり 見よう見まねで憶えたよ 凄いでしょ?

 この歌詞の後の歌詞ですが「異常な世界で 凡に生きるのが とても難しい」というフレーズあります。

 

「如何でしょう」「ねえどうでしょう?」「凄いでしょ?」

 

 

ただ踊ればいいだけなのに、主張が飛び交う令和社会では、どこかでみんな「でしょ?」と聞いて求めて強がっている、こういうとこで「凡に生きることが とても難しい」ことを表してるのかなと思いました。

 

このフレーズでの「でしょ」の連発、この歌で出てくる「でしょ」とは押し付けや迷いや歪んだ期待感が込められているのかなと思いました

 

次はサビです

異常な世界で凡に生きるのがとても難しい
令月にして風和らぎ まあまあ踊りましょ
るるらったったったった

 

異常とは「どこか狂っている」という状態。

人と人がつながっているとどこか異常で、普通に生きることさえ試されてしまう(凡に生きるのが難しい)。

 

でもどこかに変わらないものはあって 月は美しく 風は気持ちよく吹いている。(令月にして風和らぎ)

 

つまりは時代はいつでも異常だけども、ずっと昔から正常なものもある、その間でしか生きてくことしかできないのだから、まあまあ踊っておきましょ

 

という意味なのかなと解釈します。

 

「令月にして風和らぎ」という新元号”令和”の元となった万葉集の一文が引用されていて、お洒落ですね。

 

 

そして「ましょ」という言葉がここで現れています。

 

この歌でいう「ましょ」というのは「ならばこうしましょ」という仲介するような印象をうけます。

 

ぶつかりあう混沌の世界に対して、提案をしている。

 

ここに「中間」や「調和」という米津さんの言う”大事にしてるスタンス”という部分を感じるんです。

 

  

そして2番へ。

 

獣道 ボロ車でゴーゴーゴー ねえどうしよ?ここどこでしょう?
ハンドルを手放してもういっちょ アクセルを踏み込もう

 

どこかわからず迷ったけれど、それでも前に進もうという前向きなメッセージにも見えるのですが。

 

コントロールする(ハンドルを握る)気力はもうないんだけど、とりあえず前に進む。

これって、なんか最近になって目立っている無気力な日本人たちも表しているような気もしますね。

非常にやるせないことばかりで 全部嫌になっちゃうな
今日はいい日だ死んじゃう前に なあなあで行きましょ
るるらったった

 

そして2番のサビですが、これは1番のサビのニュアンスと似ています

 

結局はやるせないことばかり、嫌になることばかりだけれど

今日はいい日だった

結局どちらでも死んじゃう、そのまま死んでしまう前に主張ばかりせず妥協していきましょ(なあなあ)

 

と捉えることができます。

 

ここで2回目の「ましょ」が出てきます。

 

1番の「まあまあ踊りましょ」(十分じゃないけど、とりあえず踊りましょう)

2番の「なあなあで行きましょ」(妥協して行きましょう)

 

どこか投げやりに聞こえる言葉でもありますが。

「異常」と「正常」の中間でうまく生きていくことが大事

やるせなくても、それらを受け入れ、調和して生きていくことが大事

 

というメッセージが「ましょ」には込められていると思うんです。

 

 

まとめ

 

きっと今が「とんでもない時代」なのは、互いに何かを求め合いすぎる日本人の性質が、ネットの普及などにより助長され、重圧感に満たされているからだと思います。

 

「ああでしょ」「こうでしょ」と言い合いすぎて

「ああでしょ?」「こうでしょ?」と気にしすぎて

「何が正しいんでしょう」と見失ってしまう。

 

結局は求めすぎで考えすぎで迷いすぎな訳で。

 

それらがエスカレートした先に、無差別な殺人だってある。

 

そんなところに「じゃあこうしましょ」と頭の力を抜いてくれる人が必要なのかもしれません、この曲はそういう曲なんだとおもいました。

 

それが「でしょましょ」というタイトルの意味であり、楽曲の全体図なのかなと捉えております。

 

そういう意味で、すごく力の抜けている歌なのに、すごく強い憂いや葛藤が感じられる曲になってると思います。

 

 

 

かなり飛躍した部分もありますから、結局は個人的な解釈の範疇でしかないわけですが。

 

この曲をそれぞれが解釈する上での参考になればと、そう思います

ではまた。